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 串本の歴史
塩崎荘と塩崎氏
串本町域のに大半は、中世、塩崎荘とよばれたといわれています。江戸時代後期に藩命で編さんされた紀伊国の他誌である『紀伊続風土記』によれば 、塩崎荘は中世那智山の管内となり、塩崎氏がその地を領有したことからその名が起こったとあります。

源平の争乱と守護の交替
源頼朝が伊豆に挙兵したのと同じ治承四年(1180年)八月、熊野別当湛増も反平氏の旗を挙げ、弟湛増の城を焼き払い、その所領の人家が「数千 宇」に及ぶと記された鹿瀬(現広川町)以南の地を奪い、領したという。(『玉葉』治承4年9月3日条)。当然、串本町域の武士(水軍)も湛増に 従い、源平の争乱に源氏方として参戦したと思われます。
平氏が滅亡し、鎌倉幕府が確立されたことにより、紀伊にも、地頭とともに幕府の地方支配の根幹をなす守護が設置されました。

紀南での戦闘
建武2年(1335年)7月、北条高時の子時行が中先代の乱を起こし、鎌倉を占拠した。同8月、足利尊氏は後醍醐天皇の許可を受けることなく鎌倉に下り、10月、建武政権に反旗を翻した。ここに、南北朝の動乱が実質的に始まった。
紀南の牟婁郡には、足利氏一門の石常義慶(義房)軍が派遣され、後醍醐天皇に与する塩崎氏・小山氏らと激しい戦いを交えていたという。

頼宣の入国
元和5年(1619)徳川頼宣は紀州に入国しました。このときから250年に及ぶ紀州徳川家の政治が始まる。

江田組と大庄屋
近世の串本地方は、口熊野江田組に属していました。(大島・須江・樫野は古座組)。紀州藩は浅野時代の行政区画、庄・郷・組を改めて組のみに統一しました。すなわち郡の下に組、組の下に村という形に再編されました。

 漁業発展の舞台
紀伊半島の最南端に位置する串本は、複雑に入り組むリアス式海岸の前面に雄大な太平洋が開け、古くから好漁場に恵まれた地方として知られてきました。漁場は主として潮岬をかすめて東向進する大海流黒潮と、その内側にあって西向進する沿岸流(プランクトン発生を促す栄養に富んだ潮)との境目(潮目という)以内に形成されています。
したがって潮目には黒潮に沿って大回遊するカツオ(鰹)・マグロ(鮪)や沿岸を小回遊するアジ(鯵)・サバ(鯖)・イワシ(鰯)など暖流系の魚が群れ、北から南下するサンマなども入り交じって魚種は多彩です。また荒磯が連なる地先は、ムツ・イサキなど根付き魚をはじめ、伊勢エビ(海老)・アワビ・天草類が豊富で年間を通じて漁獲物に恵まれています。

気まぐれな黒潮は南端の潮岬に、ときとしては接岸しまた離れるという流れの変化(蛇行)があり、その振幅も一様ではなく、大きく離岸(大蛇行)するときは漁場も遠のいて、特に漁船、漁法とも未熟だった地先主体の近世カツオ漁にとって、影響するところは大きかった。またこれに伴って沿岸流も複雑な変化をみせ、ほかの漁獲にも影響を及ぼし、今日も続いているのです。

 串本の捕鯨
近世における口熊野の捕鯨基地といえば、鯨方の名で呼ばれた太地浦・古座浦・三輪崎浦の存在がよく知られています。太地鯨方は太地一族(太地一類と自称)の経営であり、古座鯨方は紀州藩、三輪崎鯨方は新宮藩の援助のもと半官半民の形で運営されていました。
これらの鯨方はいずれも勢子船・網船・持左右船・樽船など数十隻が船団を組み、羽差(指)・加子・陸上従業員を合わせると300人余りを要する大がかりな企業組織でした。
なかでも串本に隣接する古座鯨方は、いろいろの面で大島(古座組)や江田組とかかわりをもっていました、古座浦の前に大島が横たわっているので 沖を回遊する鯨を見ることができない。そこで大島の東端樫野崎(現在の灯台付近)にいわゆる山見(見張り)を立て、鯨を発見すると狼煙や旗をあげて知らせていた。
古座鯨方は10月から2月ごろまでを冬漁と称して樫野崎沖で、3月から4月までを春漁と称して二色村の小字袋浦(現串本町内)に出向いて潮岬沖で操業していました。



 大辺路の道路事情
口熊野の海に沿って、田辺から新宮に至る熊野街道大辺路は、古くから険路・悪路として知られています。

「蟻の熊野詣」といわれた三山(本宮・新宮・那智)の参詣者が、田辺から山に分け入り中辺路を往還したのも、海に面した大辺路が波の打ち寄せるきわめて危険な道だったのでそれを避けたかったのであろう。
しかし近世には、熊野参詣・西国巡礼・三宝院門跡入峰行事の帰路(下向道)などにここを通る人もしだいに増えてきたようでありました。

大辺路は塩浜から串本を避けるように鬮野川を経て姫に抜けており、姫から橋杭・串本・袋を経て高富に達する道は、「下浦海岸道路は昔は道らしきものなく、只海浜を伝い歩いたことは上浦大洞の道と同様であった」(『串本町誌』)「橋杭道は砂浜に枋(ほう)の木が一面に生えていて、その間を人が通って自然に出来た浜道であって、それが唯一の道路であった(中略)。

尚大洞(上浦)の方は断崖の裾の磯浜の砂利やら磯を踏んで往復する状態であった」(『串本のあゆみ』)とこもごも述べています。

袋と高富の間に流れる鬮野川に架かる橋が「犬戻り橋」と名付けられているのも、荒波の打ち寄せる難所であったことを象徴的に語っています。

明治35年度に県費1万円をもって、串本から江住までの道路改修工事を行い、さらに39年度から串本-周参見間の改修工事を継続事業として実施し、大正12年、ようやく完成をみるに至りました。



 串本漁と串本浅海漁場
第1期の串本漁港建設事業は昭和12年に総工費57万円、5か年継続事業の予定で着工。日中・太平洋戦争の影響で工事が遅れ、19年に一時中止そして戦後34年にようやく完成をみています。国は同港を単に一串本町漁民の対象としてではなく、わが国の重要漁港として位置づけたため、予算計上に手間取って長引くことはやむを得ぬことでもありました。

大島の養殖業に見るように、昭和30年代(1955~)は県下各地で地先を利用した養殖業が活発化したが、こうした天然の適地はまたたくまに利用され尽くされて新たな漁場を求める声が高まった。そこで考えられたのが大島と串本間にはさまれた串本港の広大な海面利用でした。
この海面は台風などしけの際に、荒波が打ち込むために利用しにくかったが、その一方を防波堤で仕切れば十分利用できる見通しは早くからありました。しかし、防波堤設置には莫大の費用がかかり、地元単独の事業では不可能だった。このため国の補助事業に組み込む運動が功を奏し、関係の古座・串本両町漁民を対象にした次のような浅海漁場開発事業(和歌山県資料「躍進する黒潮漁場・浅海漁場開発事業」より)が動き出しました。

 くしもと節
♪ここは串本、向かいは大島、仲を取り持つ巡航船・・・と唄われた串本節ですが、巡航船もくしもと大橋の開通に伴い今は運行されていません。しかし、串本節の全国的な知名度は今も変わらず、串本と言えば串本節と言われるほどです。
現在、串本節は「串本節保存会」などで保存継承されており、潮岬観光タワーでは、この串本節をビデオで放映しています。
■正調串本節保存会

本州最南端の串本で生まれ、長い間多くの人々に愛され親しまれ、唄い継がれてきた「正調串本節」を、串本の名所、風景を写し入れ、歌と踊りを後世に伝え続けるために、正調串本節保存会がCDとDVDを製作されました。
 

 

 伊勢湾台風(台風15号)
 台風銀座と言われる当地方ですが、昭和34年9月26日の台風15号にはかつてない大きな被害を受けました。

 幸い台風の上陸は夕方だったので住民は早く避難して警戒したので一人のケガ人もなかったですが被害は甚大でした。農作物などは全く全滅の状態でした。
この台風による全国の被害統計によりますと、
行方不明     5,398名
家屋の全壊   35,125戸
家屋の半壊  105,371戸

 
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