古座について |
古座川河口の町、古座は、古くから古座川上流に産する木材や備長炭を大消費地に積み出す流通ターミナルとして、また沿岸漁業、特に古式捕鯨の基地として栄えてきた。
中世は塩崎荘の中心地として池大納言平頼盛の末裔、塩崎氏の本拠地となり、その後鎌倉幕府から熊野海賊取り締まりの命を受けて当地に赴任した小山氏と、平家の流れを組むといわれる高川原氏の両有力領主が古座川を挟んで両岸を支配し、それぞれ配下の水軍を率いて南北朝および戦国時代を通じ、勇名を馳せた。
江戸時代には紀州藩直轄の鯨方および周参見代官所配下の目附役所が古座に置かれ、大島や現在の古座川町下流域も含む広大な地方行政区、古座組も中心地でもあった。
古座は「神座」が転じたものともいわれ、また古座川は古くは「祓川」と呼ばれたとも伝えられ、神聖視される特別な地でもあった。
三河国(愛知県)牛久保にある歴史書『牛窪記』には、秦の徐福一族が最初に上陸したのは紀州古座であり、のちに熊野山に移ったと書かれている。
この記述の真実性はともかく、徐福上陸の地に擬せられるほど、古くから古座は熊野の要衝として認識されたものと思われる。
経済的発展に伴って文化面でも古座には特筆すべきものが多く、江戸期の紀州随一の文化人、玉川玄龍(武内養浩)も泉州から古座に移住し、有名な『熊野巡覧記』をはじめ多くの重要な著述をあらわした、その姓玉川は、古座川の透き通るような美しさに感嘆し、名付けたものという。
また、河内祭等で演じられる獅子舞は、紀南各地に「古座獅子」として伝わる獅子舞のルーツであり、江戸末期の『紀伊続風土記』に「日置浦より新宮迄の間にこの祭りに次ぐ祭りなし」とまで称された河内祭には、その高い文化と、かつての繁栄の証が凝縮されている。
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河内祭の聖なる空間 |
古座川河口から約1km沖に、河内様同様に神聖視されている貴重な熱帯性植物が生い茂る九龍島(くろしま)という無人島がある。
ここには弁財天を祭る九龍島神社があり、魚付林(魚を育てる森)として漁民の信仰が厚い。
河内祭の前には互盟社の獅子伝馬が船体を海水で清めるために、この島を訪れる。
宵宮の入舟式では、御舟は九龍島を目指してしばらく進んだあと、海上で潮を汲み、船体を潮と酒で清めてから河内様を目指し、川を遡上する。
一方、河内様の精は蛇で、九龍島に住む鯛と恋仲になったが、離ればなれに過ごしていたのを年に一度、御舟に乗って鯛が河内様に会えるようにとりはからったのが、この祭の起源をする民間伝承もある。
また、漁民は漁場や帰港時の目印とする「当て山」を持っており、河内様の境内を構成する宮山という背後の山がそうであったという。
このように河内祭では九龍島〜河内様〜宮山という、古座川を貫く聖なる空間が形成されているのである。
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古座浦捕鯨図・樫野崎網代 |
これは、極彩色に彩られた多数の鯨船が鯨を網代に追い込んで、銛で仕留めている様子を描いた貴重な絵図である。勇壮な古座浦捕鯨絵図は紀州藩の武士の間でもてはやされ、さかんに模写されたそうだ。
鯨を確保している海域は樫野崎網代である。現在樫野崎灯台がある大島の東の突端に両手に旗を持ち指図している人が描かれている。鯨を発見したり鯨船の進退を指揮する「鯨山見」である。
晩秋から冬期にかけて東の海域からやってくる「上り鯨」を樫野崎を待ち受け、発見すると網船(船の側面に一〜六と印されている船)から網(深さ約50b・横幅15b)がおろされ、網代をつくる。極彩色に彩られた八丁櫓の勢子船が鯨を脅しつつ網代に追い込み、舳先の「羽差し」(銛手)が銛を投げて鯨を仕留める。絵図びは「羽差し」の様子がうまく描かれている。冬期にもかかわらず勢子船や持左右船(もっそうせん・鯨を二隻で挟み運搬する)それに樽船の水主(かこ・乗組員)達はフンドシ一丁の裸である。さすがにジッとして成り行きを見つめている網船の水主達は着物を羽織っている。
この絵図の様子なら、無事鯨は捕獲されただろう。鯨は持左右船で古座の浜まで運ばれ、「大納屋」の前へ陸揚げされて入札・解体された。すべての部材は無駄なく利用され、鯨油を採り、最後に残った骨まで砕かれ、肥料にされた。
古座鯨方は、いわゆる紀州藩営で、地元の古座組(旧古座町・古座川町・大島)や江田組(旧串本町)の人々にとって、なくてなならない公営事業だった。古座神社の秋祭り(十五夜)に、古座獅子は樫野崎網代に向かって獅子舞を三曲奉納するのは、かつて盛んであった捕鯨事業のなごりである。 |
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伊勢湾台風(台風15号) |
台風銀座と言われる当地方ですが、昭和34年9月26日の台風15号にはかつてない大きな被害を受けました。
幸い台風の上陸は夕方だったので住民は早く避難して警戒したので一人のケガ人もなかったですが被害は甚大でした。農作物などは全く全滅の状態でした。
この台風による全国の被害統計によりますと、
行方不明 5,398名
家屋の全壊 35,125戸
家屋の半壊 105,371戸
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