HomePage > 和歌山東漁協 > 支所トップ >
 島の先人たち
「熊野年代記」に文徳天皇の仁寿3年(853年)「熊野大島に人民家を建つ」という記録があるそうです。

都を奈良より京都に移してから60年後(平安時代)、今よりほぼ千百年前のことです。
これが、大島が文献にあらわれた最初の記録と思われます。

ようやく朝廷の政治も全国にいきわたり、このような辺地についても、いくらか知ることができるようになったので、大島が「熊野年代記」に登場したと思われますが、それ以前にも、人間が何らかの形でこの島に住んでいた、と想像することは一向に差つかえないことでしょう。
 

 大島と古座
 大島は往時から古座との関係が密接でありました。
 古座は新宮と並んで、南紀の政治、経済、文化の中心都市として栄えてきました。

 大島が江戸時代、商業資本主義の発展とともに、江戸、大阪を結ぶ通商航路の要港としてその存在を認められるに従い、古座(西向)からの移住者が次第にふえていったようです。

 江戸時代、行政上大島は古座の支配下にあり、単に政治上の関係にとどまらず、経済的、文化的にも兄弟のような関係を保ってきたようです。

 菱垣廻船
 菱垣廻船(ひしがきかいせん)が大阪(当時は大坂)と江戸間に遠距離定期航路を開始したのは、寛永元年(1634年)のことであります。
それに先立つこと5年、元和5年(1619年)堺の一商人が二百五十石の船を賃借し、これに油、木綿、酒などを積んで江戸へ輸送したのがそのはしりといわれています。

 当初は二百石から四百石積み程度であったのが、後には千石積みのような大型船も出現しました。いわゆる千石船がこれです。積荷は日用雑貨品が主なものでした。積荷が落ちないように船側に檜板や竹で菱形(菱形)の垣を設け、それを菱垣と呼んだところから菱垣廻船の名がつけられたようであります。

江戸時代における大島の発展は、この菱垣廻船の就航に負うところすこぶる大なるものがあるのです。



 港のにぎわい
「本島には著名の要港すこぶる多し。東京湾中に横浜港あり(中略)、これに次ぐものに大阪の富島、およびその北方なる神戸港、および信濃の河口なる新潟港とす(中略)。陸前に石巻港あり、紀伊に大島港あり、これら諸港は皆繁盛の良港にして、船舶常に輻輳(ふくそう)す。」

 本州における良港二十を挙げた物ですが、末尾ながらその一つに、わが大島港が入っています。」

これらを見ても、昔の海上交通における大島港の重要性と、その繁栄ぶりをうかがい知ることができます。
「地誌図書」(明治10年調査)では、大島の港は大島港と水谷港の2つとなっており、田代港は入っていません。

この2つの港に、いわゆる千石船が、年間千数百隻碇泊したと記録は語っています。
「障子あければ大島ひと目、なぜに佐吉は山のかげ」と、串本節に唄われている障子は、串本の家の障子ではなく、千石船の油障子だ、という人がいます、
これの方が正説でありましょう。昔の千石船にはトモに油障子がはめられていたのです。

千石船は戸島や苗我島の方から入港してくる時、すでに帆を下ろしているので、進むことはできません。そこで、何隻かの伝馬船が、かけ声勇ましくこれを曳航したのです。

千石船は横に船体をくっつけ、10隻、20隻ともやいます。こうして、港はたちまち活況を呈することとなるのです。
「地誌図書」によると、当時大島浦には船宿が32軒、旅館が6軒あったと記録されています。

 潮岬会合
寛永14年(1637年、3代将軍家光の頃)上野浦 出雲浦 串本浦 くじの川浦 有田浦 田並浦 江田浦 田子浦 和深浦 里野浦 江住浦 見老津浦 周参見浦 大島浦 須江浦 樫野浦 古座浦 西向浦 下田原浦、以上19の浦の代表が会合し、漁獲について規約を定め、それが明治初年まで継続し、守られてきたと述べています。

この会合において、大島浦は必ず総代の地位に着くことがしきたりとなっていました。このことは、大島浦が漁獲物の販売についての経済的権利を、一手に握っていたことを裏がきしているようです。

冷蔵設備のない当時のことですから、いくら魚を獲っても販路がなければどうしようもない。千石船のひしめく大島の港が、この沿岸の漁業者にとって頼みの綱であったことが推察されるのです。
漁業に付随して、当然考えられるのは水産物加工業です。鰹節を中心に、塩物、干物などの製造が、かなり盛んに行われていたと考えられます。
 
鰹は20度前後の水温を好む魚で、初春暖流にのって北上し、秋になって東北海区の暖流系水帯が消滅すると、南下すると言われています。

昔潮岬沖に集まる多数の漁船の中で、春鰹の釣りが上手な船頭と、秋鰹が得手の船頭があったそうです。鰹は石器時代から食用されていた魚で、鰹を獲る漁業は、太古から現代に到る間の、我国漁業発展の歴史そのものであると思われます。

特に紀州は、昔から鰹漁の盛んな所で、全国に指導に出ており、特に潮岬沖には、全国各地の漁船が集中し、数百年の昔から、これが統制のために、潮岬会合という漁業上の会合を作って、規約を定め漁場の管理に当たったそうです。

寛永年間から続いた、この漁業組合も戦後の漁業権の大改革によって、昭和26年に、政府によって買い上げられ、数百年に亘る絢爛たる歴史を有するこの会合も、漁業の華とうたわれた鰹漁を主体として、その時代その時代の色々な話題を残しながら、土佐から志摩に到る各漁浦に、今も漁民の間に語り草として言い伝えて、その幕を閉じたのであります。









                    
 異国船の出没
本州最南端に位置する大島周辺には、昔から外国の船がしばしば姿を見せています。
最も古い記録は「亀山天皇の弘長3年(1263年)9月、唐船(中国)が1隻大島に現れ翌日出帆大船であったという」と、熊野年代記にあります(東庄助氏調べ)。鎌倉時代のことです。
徳川幕府が鎖国政策を強行して間もなく。正保2年(1645年)キリシタン取締まりを目的とした瞭哨所なるものが大島浦に設置され、西向の小山隆保がこの役所の役人を命ぜられています。大島の港に廻船が次第に出入りしはじめる頃です。
○貞享四年(1687年)秋、ルソン(フィリピン)の船が苗我島に漂着、すでに11人が死亡しており、生き残った者が3人いたが、言語が全く通じないので、役人が来てこれを連行、長崎へ送り返した。(熊野巡遊記)
○安永9年(1780年)7月、南京人(中国人)が筑前船(福岡)に乗って大島に入港。(熊野年代記)
○寛政元年(1789年)冬、77人乗組みの南京船「朱心如」なる大船が津荷浦に漂着、後に大島へ入港、土州船(高知)がつきそい送り返す。(熊野巡遊記)
○寛政3年(1791年)3月の末、アメリカ船が大島に立寄り11日滞在、上陸して水や薪をとる。若山(和歌山)へ注進、急遽目付奉行等が来島したが、すでに出港のあとであった。
○文政9年(1826年)3月、唐船(中国)が大島に入港、翌日出帆したが、乗組員は150人、他に漂流船から日本人が3人いたという。(串本町誌記録)
○弘化3年(1846年)5月、大島の遙か沖に四千石積程の異国船を発見した。3本マストで多くの帆を巻き上げていたという。
○文久元年(1861年)9月21日、イギリスの大船が大島と橋杭の間に入港、長さ三十六間、人数百六十余人、上陸して所々へ白いものをぬって印をした(ペンキであろう)。炭を二千俵古座から買入れた。彼等のことばは次のごとし。
Copyright(C) JF Wakayama Higashi All Rights Reserved.