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樫野地区の歴史と文化
 黒潮の副流が寄せる四方を海に囲まれた紀伊大島の東側に位置する樫野地区は、古くから海上交通の要所として知られ、日本最古の石造り灯台や日本で最初の日米修好の地として、また明治のトルコ軍艦遭難に際しては、村民の献身的な救助活動が縁で、日本とトルコ友好の基礎を築いてきました。
 今も残る灯台建設に携わったイギリス人が植えたとされる水仙や、遭難したトルコ軍艦の遺品など、歴史的な活きた資料がたくさん残っています。
 その様な樫野の余り知られていない史実や背景、物語などをご紹介致します。

 江戸時代の樫野浦
 今から400年ほど前、元和五年(1619)徳川頼宣が紀伊の国へ封せられ、入国するや田辺周辺を安義氏に、新宮周辺を水野氏に治めさせ、下田原から瀬戸鉛山までを直轄とし、大島三ヶ浦は古座組へ入れられました。

 明治四年の廃藩置県、明治十二年東牟婁郡大島村となり、昭和三三年に串本町と大島村が合併し現在に至っている。

 藩主徳川頼宣は早くから海防に力を入れ、寛永十四年に浦組を組織させましたが、その記録によると、慶安三年(1650)に、「大島浦 家数 四二軒」 「須江浦 家数 二三軒」 「樫野浦 家数 二一軒」とあります。

 また、天保十年(1839)の紀伊風土紀によると、「大島浦 一四四軒 六五六人」 「須江浦 六四軒 二六八人」 「樫野浦 三八軒 一六九人」となっています。
 

 樫野の先人達
 紀伊続風土記では「鳴神明神」とあります。祭神は本殿に「五十猛命(いそたけるのみこと)」を、合祀されている八幡神社には「誉田別命(ほんだわけのみこと)」を、蛭子神社には「事代主命(ことしろぬしのみこと)」を祀ります。

「大島村史」には、「当社は古くより須江、樫野両浦の産土神(うぶすながみ)であり、明治三十年頃までは大島より毎年9月9日の例祭に、酒と魚を献納する習慣があったと書かれています。

 明治45年に三社を合祀し現在に至っています。

 雷公神社を説明する場合、避けて通れないのが「雷公神社が古くから須江、樫野両浦の氏神である理由」と、「雷公神社移動説」です。

 大竜寺の過去帳の写し(本物の過去帳は焼失)によると、「嘉承二年(西暦1107年)九月八日夜、樫野雷公明神上陸す(一説には嘉吉二年西暦1442年とも)」とあり、夜半であったため寺の住職が苦竹で作った松明で迎え、寺に安置し磯魚と菜を供えもてなしたそうです。

 古くから須江、樫野両地区には「昔は、雷公神社は須江にあり嵐で流失したが、翌日に樫野に漂着し、寺の住職が浜で拾いお寺に安置した。」という言い伝えがあり、確認はできませんが須江の東の山には、神社の跡があると言われています。


その他、天保年間に編集された「紀伊続風土記」によると、鳴神神社があるあたりを「地下(じげ)」と言い、須江地区の浜のあたりも「地下(じげ)」と言います。

 熊野には古くから巨岩、巨石、巨木、滝など自然の造形物を神あるいは鎮守様として祀る習慣があり、「五十猛命」は一説では嵐の神様で、「自然神」と思われ、上陸してきたこの場合の「神」を「自然神」と考えるには無理があり、人と考える方が歴史的には普通だそうで、元々住んでいた先住者より力のある集団が渡ってきたと思われます。

 古代縄文時代の遺跡からも、須江地区の峰地丘陵地帯から浜にかけてと、樫野地区の鳴神の浜にかけて縄文人が生活していたことは間違いがなく、すぐ隣りどうしの須江、樫野の浜の住人は、互いに密接な関係にあったと思われ、先住者として住んでいた彼らの村に、先住者より力の強い一族が移ってきたのではと考えられます。

 後世になり、いろんな史実を祭事に結びつけることは珍しくなく、「一族の上陸」、「氏神である八幡神社」、「産土神である嵐の神、鳴神明神」そして「須江、樫野の深い結びつき」を関連づけたのが「昔は、雷公神社は須江にあり嵐で流失したが、翌日に樫野に漂着し・・・」と言う話で伝えられたような気がします。
 
 雷公神社の女人禁制は近年になって解かれ、女性もお参りすることができるようになりましたが、信仰心の強いところは昔と変わらず、氏子は神社にあがる際は神社下の美鈴川の水で手足口をゆすぎ、履き物をぬいで参ります。










  日本最古の石造り灯台「樫野埼灯台」
■開国と灯台建設(日本最古の石造り灯台)と水仙の花

 大島の東端、樫野の断崖に日本最古の石造り灯台が今も活躍しています。

 鎖国が解かれた日本に、各国からの要請で建設された日本最古の石造り灯台の内の一つが樫野埼に今も灯をともす「樫野埼灯台」です。

 英国技師「R.H.ブラント」が手掛け、1869年4月に着工し、翌年6月10日に点灯された。

 灯台の付近に自生する水仙は、当時の技術者達が持ち込んだ物とされている。当時の大島は、今とは違い道路もなく、大変な環境での工事だったようで、水仙は彼らの心を癒したようです。

 樫野灯台口駐車場から徒歩5分。(高さ10.20m、光度53万カンデラ、光達距離18.5海里)
 
  樫野埼灯台旧官舎
■▽国登録有形文化財

紀伊大島の東端に位置する樫野埼灯台の旧官舎。樫野埼灯台と旧官舎は、イギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、明治3年(1870年)に建設されました。

 ブラントンは、明治元年(1868年)に来日し同9年に帰英するまでに、日本各地の灯台やその付属施設の建設を多く手がけましたが、樫野埼はその最初期のものです。

 灯台は昭和29年に大規模な改築が実施されましたが、官舎は当初の形態を比較的よく残しています。

石造平屋建、寄棟造<よせむねづくり>、建築面積162u。
 
  樫野埼灯台建設に使われた石材
 鎖国が解かれた日本に、各国からの要請で建設された日本最古の石造り灯台の内の一つが樫野埼に今も灯をともす「樫野埼灯台」の建設が明治2年に始められましたが、その際の石材が現古座川町の宇津木から切り出された物という文章が残っています。

 『明治2年(1869)3月15日偉人樫野埼に灯明台屋敷拵えにかかる。その石を宇津木より取り寄せる。大石一個、目方千貫より百貫まであり、石屋百五十人の賃金は段々にて…中略…家大工の賃は一人前…以下省略』

 この年から樫野崎の灯台と旧官舎の建設に取りかかったようで、石材は古座川町の宇津木から切り出し、古座周辺からは大工方も雇っていたようで、石材の重さは大きい物で約4トン〜400kgまであったようです。
 

  日米修好の地
■日本初の黒船来航は、浦賀ではなく樫野埼であった!
 米国のペリー提督が黒船で浦賀沖に来航した日をさかのぼること60年余り前、寛政3年3月24日(旧暦)夕方、突如現れた2隻の船に、樫野浦の住民は驚き、慌てふためいた。

 潮だまりに投錨した船からは、小型の船が降ろされ、磯周りを廻りながら、水を補給したり鉄砲で鳶を撃ち落とした。
 (日本側資料)中国にラッコなどの毛皮を交易しようと出かけたが不成立になり、帰還途中に立ち寄った日本であったが、毛皮の使用法を知らなかった住民とは、やはり交易が成立しなかった。

 この日、日本は、初めて星条旗を見ることとなり、米国人が初めて日本の地歩踏んだわけで、以来、日本と米国との関係が続くこととなります。

日米初の修交に関する文献(観光パンフレット及び串本町史より)
・米国文献

1791年、ボストン船籍の「レディ・ワシントン号」(ケンドリック船長)がニューヨーク船籍「グレイス号」(ダグラス船長)とともに中国からの帰路、ラッコの毛皮を交易しようと南日本の港に入港した。この時日本は初めて米国旗を見た。しかし住民は、毛皮の使用方法を知らなかったので商売にはならなかった。(マサチューセッツ海事史)


・日本側文献
寛政3年3月26日夕、南海道紀伊国大嶋浦へ蛮船2隻漂着、右大嶋浦は口熊野の内也、..中略..小舟をおろし魁主は赤将束緋羅紗の由十四五人端船にて磯部乗廻り、小鳥銃にて鳶鳥を十五六打申候..中略..この後大嶋の水有之所にて水を取申候、水源より木綿桶にて端船へ水を招きやり候由、漁船を招き一怪書を贈り申候、本船主紅毛有之候得共、紅毛とは不相見へ、ムスコヒヤヲロシヤの類と相見へ、横文字を有之候、去年本船はアメリカ記し置書面と一様不相見へ候..

(国立公文書館「外国通覧」)

寄港地は、現在の雷公の浜(ナルカミ)とされています。「水有之所にて..」とあるのは、雷公神社脇を流れる小川と思われます。この付近は、紀伊風土記などによると、古くから集落があったようで、当然の事ながら、当時も集落があり、この人々が最初の交流の当事者になります。

この時、漢文の書簡の他にオランダ語の書簡も手渡したようで、後の報告書に「蛮船二隻は亜蘭蛇、..(外国船はオランダ船)」と誤解してしまい、近年米国の資料が見つかるまで、ペリーの浦賀来航が日本で最初と言われることとなります。
 






巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)





 トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難

 明治22年オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン提督を特派使節として日本に派遣した。

 巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて609名であった。

 翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。

 明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。

 やがて、山のような怒濤に揉まれ揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。

 この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、かかる絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。

 地元住民の献身的な救助活動にも、オスマン提督以下540名が遭難、69名が救助された。

 かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。

 
 日本人216名を救ったトルコ航空機
 イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。

 イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。

 世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかったため空港にいた日本人はパニックに陥った。

 そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。
 トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。

 なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。
今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」


※この事は、あまり日本人に知られていません。
 
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