紀伊大島」須江区の歴史と文化 |
黒潮の副流が寄せる四方を海に囲まれた紀伊大島の南側に位置する須江地区は、石器・縄文土器片などの出土があるように石器・縄文時代から先住の人びとが集落を作り住んでいたようです。
古くから須江、樫野両地区には「昔は、雷公神社は須江にあり嵐で流失したが、翌日に樫野に漂着し、寺の住職が浜で拾いお寺に安置した。」という言い伝えがあり、確認はできませんが須江の東の山には、神社の跡があると言われています。
その他、天保年間に編集された「紀伊続風土記」によると、鳴神神社があるあたりを「地下(じげ)」と言い、須江地区の浜のあたりも「地下(じげ)」と言います。
後世になり、いろんな史実を祭事に結びつけることは珍しくなく、「一族の上陸」、「氏神である八幡神社」、「産土神である嵐の神、鳴神明神」そして「須江、樫野の深い結びつき」を関連づけたのが「昔は、雷公神社は須江にあり嵐で流失したが、翌日に樫野に漂着し・・・」と言う話で伝えられたような気がします。
須江地区の漁業は、明治三六年に須江漁業組合を設立、昭和二四年に須江漁業協同組合に改変し、平成二〇年の合併により現在に至っています。 |
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江戸時代の須江浦 |
今から400年ほど前、元和五年(1619)徳川頼宣が紀伊の国へ封せられ、入国するや田辺周辺を安義氏に、新宮周辺を水野氏に治めさせ、下田原から瀬戸鉛山までを直轄とし、大島三ヶ浦は古座組へ入れられました。
明治四年の廃藩置県、明治十二年東牟婁郡大島村となり、昭和三三年に串本町と大島村が合併し現在に至っている。
藩主徳川頼宣は早くから海防に力を入れ、寛永十四年に浦組を組織させましたが、その記録によると、慶安三年(1650)に、「大島浦 家数 四二軒」 「須江浦 家数 二三軒」 「樫野浦 家数 二一軒」とあります。
また、天保十年(1839)の紀伊風土紀によると、「大島浦 一四四軒 六五六人」 「須江浦 六四軒 二六八人」 「樫野浦 三八軒 一六九人」となっています。
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須江漁業組合と漁業の歩み |
[漁業組合設立の沿革]
@(須江漁業組合)
明治36年1月23日設立認可申請
所在地 串本町須江60番地(今の東の店)
事務所建設費 250円也 借地料 年間15円也
A(無限責任須江漁業組合)
昭和11年3月12日(指令商水6122号)を以て組織変更認可
B(須江漁業会)
昭和19年(指令水第211号)を以て改組指令あり。3月27日臨時総会に於いて決議(指令水第767号にて認可)
C(須江漁業協同組合)
昭和24年5月15日須江青年会館に於いて発起人会
D(和歌山東漁業協同組合須江支所)
平成20年4月1日合併により現在に至る。 |
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須江地区で行われていた漁業について |
@鰹釣漁業について
潮岬附近十九ヶ浦を以て結成されたる潮岬連合組合の一つとして、明治時代より漁業の繁栄を謳われ、十数隻の鰹船は八丁櫓の押し船に20数名の若者を乗せ、潮岬に幾往復をして大漁を続け、殷賑を極めた。 |
A網代漁業について
網代は本網代を主とし、白野カゲの浦清水オロツ凪の谷等を漁場とし、毎年輪番制として旧5月頃南西の風が吹き始めると、鰹メジカ鮪が回遊し、個人の網で捕りきれない大群が寄せて来ると、始めて地下網又は大網(南北)を出し矢吾網や捕網を使用したものである。 |
Bヤダラ網について
ヤダラ網は須江独特のものであろう。(他所の地曳網と原理は同じ)
既に明治37、8年頃より5統ありと記録されているが、相当盛んであったそうである |
C海老刺網漁業について
大正2年頃より盛んになり常に40〜50統位操業しているが、天草貝類と共に現在でも須江浦に於ける重要な根付漁業だけに、早くから県費補助や自己資金を以て放養や禁漁区を設けて自主規制をしていたのは流石である。 |
D天草漁業について
天草は組合設立迄は区が扱っていたものと思うが、明治37年度の決算書より、組合扱いになって居る。 |
E焚入網漁業
なんと言っても基幹漁業の一つである明治43年頃1統経営しているが、大正2年より3統、昭和5年頃まで6統操業している。
当初、火光はガスを利用しているが、後に石油に切り換えたものの経費が高くつき、採算上可成り苦しい状態が続いていたが、偶々、城谷吉蔵氏が五島列島のカバ島で水産加工していたのだが、其の辺の漁船が発電機を利用した集魚灯を使用しているのに着目し、色々と研究の結果、可成りの経費節減となり火力も強い事を見究め須江の業者へすすめてくれた。 |
F秋刀魚漁業について
秋刀魚漁業の歴史も古いが、昔の秋刀魚漁と云えばヤダラ網と同じ様な形のもので、午前10時頃より日盛りに主として操業していたが、弥吉の爺さんが偶々火についた秋刀魚を陸地近くまで誘導しタマですくって船一杯捕って来た事がきっかけで、この様な習性があれば、田辺あたりで掛網を使っているらしいから十分掛網で夜間捕れると判断し掛網を使用し始めた。 |
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※記載の漁業・漁法については、現在行われていなかったり、組織、形態の変わっているものもありますので、ご了承ください。 |
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当時使われていた潜水具 |
真珠貝に魅せられて |
須江の海外渡航は東濠州木曜島から始まります。
濠州クイーズランド州北部ヨーク半島の最先端にある木曜島(サーズデイアイランド)は、明治3年頃周辺に真珠貝の棲息する事が発見されて以来、同島は採貝業を中心として発展して来たものです。
須江に於ける海外渡航に関する記録にあるものでは明治25年が初めてです。
明治2年3月、英国人が樫野崎灯台の建設にかかり、翌3年6月10日点火されると記録されているが、この英国人が帰国する時、樫野の斉藤佐一郎と言う人を神戸まで連れてゆき、それから濠州へ渡ったのではないでしょうか。
これは木曜島から帰った人の話として「明治14年樫野の斉藤佐一郎なる人が渡航していた」と言う事で裏付けられ、この付近では最初の渡航者ではないかと推測されます。 |
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氏神様 雷公神社 |
雷公神社 祭神五十猛余 須江樫野両浦の氏神です。
何時頃祀られたものかわからないが、古くからナルカミサマとして両浦の信仰の厚い神様である。伝説では「須江ではこの神様はもと、須江に在ったのだが、暴風雨の時流れていったのだ」と樫野では「或朝、和尚が浜に出たら流れていたのを拾って寺へ祀ったのだ」と言われています。
古代縄文時代の遺跡からも、須江地区の峰地丘陵地帯から浜にかけてと、樫野地区の鳴神の浜にかけて縄文人が生活していたことは間違いがなく、すぐ隣りどうしの須江、樫野の浜の住人は、互いに密接な関係にあったと思われ、先住者として住んでいた彼らの村に、先住者より力の強い一族が移ってきたのではと考えられます。
後世になり、いろんな史実を祭事に結びつけることは珍しくなく、「一族の上陸」、「氏神である八幡神社」、「産土神である嵐の神、鳴神明神」そして「須江、樫野の深い結びつき」を関連づけたのが「昔は、雷公神社は須江にあり嵐で流失したが、翌日に樫野に漂着し・・・」と言う話で伝えられたような気がします。
現在の地に祀られたのも何時かわからないが、紀伊続風土記によると、「鳴神明神社4尺×6尺社地周2町、村の南地下と言う所にあり」とあるから、天保年代、150年程前、既に現在地に在ったのだろう。
文化5年の大風雨の時、大竜寺が倒壊しており、その時分に比処に移したか。祭典は10月9日(もとは旧歴9月9日)
当日の神事の後の御座には古時にならって必ず寺からの菜が肴として出される。宵宮には樫野では、たいまつを持って参拝している。当日は島中の人はもとより串本古座遠くは三輪崎の漁船も参拝したもである。当神社が荒神であり、霊験新たかだと言われるだけに汚れを甚だ忌む。明治23年トルコ軍艦遭遇の時、ナルカミの浦には屍体が1体も寄らなかったという。 |
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伊勢湾台風(台風15号) |
台風銀座と言われる当地方ですが、昭和34年9月26日の台風15号にはかつてない大きな被害を受けました。
幸い台風の上陸は夕方だったので住民は早く避難して警戒したので一人のケガ人もなかったですが被害は甚大でした。農作物などは全く全滅の状態でした。
この台風による全国の被害統計によりますと、
行方不明 5,398名
家屋の全壊 35,125戸
家屋の半壊 105,371戸
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須江の昔話 「いかとり船と海坊主」」 |
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その昔村のイカとり船が浦口を出るとき、急にとも艫が重くなり、しまいには口をおせなくなったり、又暗の海から細い声で「杓をくれ、杓をくれ…」と云ふので何気なしに杓を海へなげてやるとその杓で、海の水を舟へくみ入れられたといふ漁師もあったと言うことです。
度々こうしたことがあるので村人たちは、これは海坊主(一説には海で遭難した人のボウレとかいってます)の仕業にちがいないと、浦の岬に祭ってある辨天さまにお詣りして「どうか海坊主のイタズラをやめさせて下さい」とお願ひした処、辨天さまは「よしよしでは炒ったイズ豆を供えよ」とのお告げに、早速村人達はイズ豆を炒って神前にお供へしました。
辨天さまは、海坊主を呼ばれて、この豆を境内に蒔いておくから、この豆が芽を出すまで港の入口でヤクダ(悪戯))をしないように約束せうと話された処、海坊主は炒った豆とも知らず、蒔いた豆は必ず芽を出すものと思い、「よろしい約束しましょう。」と云って海へ帰っていった。
ところが、辨天さまの蒔いた豆はいつまでたっても芽が出ないので、海坊主の出ることができず、それから入口には何事もなく、漁師達の安心して出漁するようになったとか。
尚村人達は辨天さまには毎年正月と秋には神前にお供えをして神主さんをお迎へしてお詣りをする習わしは、今も続けて居られます。 |
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