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 田原地区の歴史
 田原村は、いにしえの頃は、神戸郷に属しており、熊野の領地でした。
平安朝の頃から荘園が始まり、郷制が廃り、神戸郷の名前もいつしか消えてしまったのです。

 荘園制度が始まるとともに、当村は、太田荘に属し、太田荘は、現在の田原及び下里、下太田、上太田の4村だったようです。

 奥熊野、口熊野は、田原村を境として田原村から東は奥熊野に属し、後世になって、堀内氏の領地は下里村、浦神までだったので、田原村は属していなかったようです。

 徳川時代になり田原村下田原は、古座地方とともに、和歌山藩領になり、古座組に属していました。尚、田原村上田原、佐部より東は、水野候の領地となりました。

 明治維新前後については、下田原は古座組に、佐部、上田原は太田組に属し、明治22年郡区町村改編により、下田原、佐部、上田原の3つの村を合併して、役場を下田原に設けました。

 佐部城の戦い
 天正10年(1582年)、田原佐部城で新宮の堀内安房守氏が佐部城を築き、口熊野を侵略しようとしましたが、高川原摂津守貞盛、小山新左衛門は、安宅、目良氏と連合して佐部城を攻めました。

 芳養善五郎等が奮戦しましたが、苦戦を強いられ、古座の浅利平八が鉄砲6匁玉を使って、城将の椎橋権左衛門を討ち取り、勝利しました。

 これ以降、高川原(高磧)氏は、下里川から西を領土とし、浜の宮から西は熊野那智山領に戻り、堀内氏はそれから東まで退いたわけです。

 下田原に打ち上げられた大烏賊(おおいか)
 明治4年(1871年)、下田原へ大烏賊上がり、犬2匹を殺す。籾糠を持って捕う。 目方26貫あり。

 ※下田原の海岸に98kg余りの大きなイカがうち上がり、近寄った犬を瀕死の状態でも絞め殺したのではないでしょうか。
 また、大きさから想像するに、大王烏賊(だいおういか)だったのでしょう。
 ただ、「籾糠を持って捕う」と言う文については、もみやぬかを掛けて捕まえたのでしょう。

 主な方言
・こく:さるなし

・だんば:めだか

・かたじ:いなご

・じがきむし:みずすまし

・せぇ:かめの手

・こどら:なまこ

・どんびこ:スズメの子

・あどない:幼い

・おじくそたれ:臆病者

・まいかす:失う

 田原小学校の歴史
●明治9年(1876年)
下田原、佐部、上田原3村の連合で下田原村の檀那寺の一角に校舎を建てて共存小学校という名称で開校しました。
●明治11年(1878年)
下田原上地に校舎を移転しました。
●明治15年(1882年)
佐部、上田原村連合で月将小学校として、佐部に分立しました。

 伊勢湾台風(台風15号)
 台風銀座と言われる当地方ですが、昭和34年9月26日の台風15号にはかつてない大きな被害を受けました。

 幸い台風の上陸は夕方だったので住民は早く避難して警戒したので一人のケガ人もなかったですが被害は甚大でした。農作物などは全く全滅の状態でした。
この台風による全国の被害統計によりますと、
行方不明     5,398名
家屋の全壊   35,125戸
家屋の半壊  105,371戸

 
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