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熊野那智大社


同社に隣接する青岸渡寺


扇御輿


田楽舞

 熊野那智大社
熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社で、熊野三山の一つです。

熊野夫須美大神を主祭神として、かつては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていました。また、熊野十二所権現や十三所権現、那智山権現とも言います。
2004年7月1日、ユネスコの世界文化遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されました。

平安時代後期、阿弥陀信仰が強まり浄土教が盛んになってくる中で、熊野の地は浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇の参詣が頻繁に行なわれ、後白河院の参詣は34回に及んだそうです。

上皇の度重なる参詣に伴い熊野街道が発展し、街道沿いに九十九王子と呼ばれる熊野権現の御子神が祀られました。

鎌倉時代に入ると、熊野本宮大社で一遍上人が阿弥陀如来の化身であるとされた熊野権現から神託を得て、時宗を開きました。
熊野三山への参拝者は日本各地で修験者(先達)によって組織され、檀那あるいは道者として熊野三山に導かれ、三山各地で契約を結んだ御師に宿舎を提供され、祈祷を受けると共に山内を案内されました。

熊野と浄土信仰の繋がりが強くなると、観音の化身とされた牟須美神を祀る那智大社の那智浜からは観音が住むという補陀落を目指して、大勢の僧侶が小船で太平洋に旅立ちました。

次第に民衆も熊野に頻繁に参詣するようになり、俗に「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどに盛んになったわけです。
 
 那智の火祭り
那智の大滝は神代の昔から多くの人々が畏敬し、神格として尊ばれて来ました。この那智山には、大国主命並びに、いざなみの命をお祀していたのですが仁徳天皇の御代(5年)に社殿を新築した際熊野の神々、即ち十二所を合祀しました。この熊野大神十二所を遷した時の行事が「扇祭」または「火まつり」として伝えられています。

 「扇祭」は熊野権現十二所の神輿で、那智大滝に鎮まられている神霊をのせて、本社即ち那智大社に遷す行事であります「火まつり」は十二体の扇神輿を十二本の燃え盛る大松明で清める豪壮な行事で、若者の「ハレヤ ハレヤ」の特異な掛け声も勇ましく昼ではあるが、杉木立の暗闇の中で炎が乱舞し大滝の前できらびやかな扇神輿を清める儀式は極めて神秘的であり、まさに火と水の祭典であります。

例大祭は扇会式例祭または扇祭と呼ばれ、7月14日の本社大前の儀式、渡御道中の火祭、滝本の行事からなる。
・7月9日に社殿を清め、那智大滝の注連縄を張り替える。
・7月11日に扇を張り、扇神輿12基を組み立てる。
・7月13日は宵宮祭があり、礼殿で田楽舞や大和舞が奉納される。
・7月14日日の例大祭は礼殿で行なわれる。

午前中は大和舞、田楽舞、田植舞が奉納され、午後からは扇神輿が大社から旧参道を経て滝本の飛滝神社へ運ばれる。
途中の「伏し拝み」という場所で扇神輿を残して全員が滝本に下がり、これは「扇立て」と呼ばれる。

滝本では宮司ら神職が祭壇前に座り、烏帽子をかぶった二臈神職が点灯した2本の松明を持って「伏し拝み」まで使が走る。
一の使、二の使、三の使と繰り返した後に扇神輿が滝本に向かうと、出迎えは12本の大松明に火を付けて石段を登る。
同時に神職が光ヶ峯遥拝所に行って松明を供え、神饌を献納する。

参道の石段では、扇神輿の清めとして大松明と扇神輿との双方200名がもみ合い、乱闘を行なう。

滝下に神輿が着いてからは儀式を行ない、舞を奉納して火祭が終わる。
その後は本社に登り、還御祭を経て終了する。

この扇祭は那智の火祭として県の無形民俗文化財に指定されており、特に田楽は那智の田楽として国の重要無形民俗文化財になっている。
 
 那智の滝
那智滝(なちのたき)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の那智川にかかる滝。華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。

那智山中には、いくつかの渓流があり、その渓流には60余に達する多くの滝が架かっている。「那智滝」とは、本来は、那智山の多くの滝のうち、瀧篭修行の行場として扱われた48の滝(那智四十八滝)の総称であった。

しかし、現在、一般に那智滝として知られている滝はこれらのうち、一の滝を指している。那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地であり、一の滝は現在でも飛瀧神社の御神体であって、飛瀧神社の境内に設けられた滝見台からその姿を見ることが出来る。

水柱は直下133m、銚子口の幅13m、滝壺の深さは10mの日本一の名瀑で、銚子口の岩盤に三つの切れ目があって、三筋になって落下し 始めるところから、「三筋の滝」ともよばれています。また那智の滝の代表するということから那智の大滝とも呼ばれる。

明治期の神仏分離以前においては、その三重の塔が属する青岸渡寺と熊野那智大社は一体のものであったが、今日においては三重塔は青岸渡寺に属するため「青岸渡寺の三重塔と那智滝」と表記するのが正しい。

那智原始林内には多くの滝があるが、このうち48の滝に番号と諸宗教(神道を中心に、儒教、仏教、道教、陰陽五行説など)にもとづく名が与えられていた。

これらの滝では、青岸渡寺開祖と伝えられる裸形上人をはじめとする宗教者たちのほか、花山法皇も二の滝の断崖上に庵を設けて、千日瀧篭行をしたと伝えられている。しかし、明治期の神仏分離令・修験道廃止令によって、これらの行を支えた神仏習合的な信仰が失われるとともに、明治初期からは所在や名称も不明となっていた。

だが、1991年、わずかに残された古文書を手がかりに、地元の有志・新聞社・僧職などが四十八滝探査プロジェクトを行い、再発見に成功した。また、1992年からは青岸渡寺の手によって、那智四十八滝回峰行が再興されている。

 市野々地区、「王子神社」の例祭
「王子神社」(おうじじんじゃ)
東牟婁郡那智勝浦町市野々
祭神は天照大神 忍穂耳尊(おしほにのみこと)
古くから熊野那智大社の末社として造営されていましたが、明治に村社として独立し、那智山の支配から離れました。
本殿、「流れ造」、拝殿「入母屋造」、鈴門があります。

例祭は1月15日に行われていましたが、近年、祝祭日の変更により、1月の成人の日に「弓神事」と「獅子舞奉納」が行われています。
また、昔は秋、豊年祭にあたる大祭も存在し、屋形(御輿)が出て、神楽の奉納もあったようです。

獅子舞は古座系の獅子舞で由来についての詳細は不明です。
獅子はオン獅子で、現在は子供獅子舞の奉納のため小型の獅子頭も使われている。 舞は、現在「弊の舞」「乱獅子」「剣の舞」が伝承されている。
 



 川関地区「飛烏神社」の例祭
「飛烏神社」(あすかじんじゃ)
東牟婁郡那智勝浦町川関
飛烏神社の鳥という時は「烏」を使います。
祭神は「事解男命」(ことさかおのみこと)

棟札に天正十七年本殿造営と記録されており、豊臣時代に造営されたものと思われます。

2月14日15日であったが、近年、2月10日宵宮、11日本宮とした。獅子舞は、宵宮に地下回しを、新築屋固めと役の方の家で舞わし、本宮の午後1時から神社で総舞しが行われます。

獅子舞は、伊勢より社中を招き習ったと言われており、舞や舞の呼び方から、明らかに伊勢大神楽に極めて近いものです。

近在の市野々やすぐ隣の井関の獅子舞は、古座獅子であることは確かで、下って那智勝浦浜の宮の獅子舞は古座から習ったとされており、いつ頃なぜ伊勢大神楽がこの地に伝わったのかは解りませんが、昔の話から「明治時代に伊勢太神楽を招いて習った。」とも言われており、それ以前は他の地区同様「古座流獅子舞」を舞わしていたとのお話もあり、紀伊半島南部の獅子舞にとって特異な存在です。

獅子頭は、伊勢太神楽と同様の小型のもので、特に「魁曲」に使われるものは小さく出来ています。

獅子の雌雄は特にオス、メスと区別しないようですが、一説では「宇久井がメンで、川関がオン」とも言われています。
屋台は春日造の屋根に鯱が付いており、屋台自体かなりの年代物のようです。締太鼓は左付け、笛は七穴の篠笛を使って、獅子舞は現在も「共心会」が継承しています。
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