紀伊大島須江地区の秋祭り





  「雷公神社(なるかみじんじゃ)」
 紀伊続風土記では「鳴神明神」とあります。祭神は本殿に「五十猛命(いそたけるのみこと)」を、合祀されている八幡神社には「誉田別命(ほんだわけのみこと)」を、蛭子神社には「事代主命(ことしろぬしのみこと)」を祀ります。

「大島村史」には、「当社は古くより須江、樫野両浦の産土神(うぶすながみ)であり、明治三十年頃までは大島より毎年9月9日の例祭に、酒と魚を献納する習慣があったと書かれています。

 明治45年に三社を合祀し現在に至っています。

 雷公神社を説明する場合、避けて通れないのが「雷公神社が古くから須江、樫野両浦の氏神である理由」と、「雷公神社移動説」です。

 大竜寺の過去帳の写し(本物の過去帳は焼失)によると、「嘉承二年(西暦1107年)九月八日夜、樫野雷公明神上陸す(一説には嘉吉二年西暦1442年とも)」とあり、夜半であったため寺の住職が苦竹で作った松明で迎え、寺に安置し磯魚と菜を供えもてなしたそうです。

 古くから須江、樫野両地区には「昔は、雷公神社は須江にあり嵐で流失したが、翌日に樫野に漂着し、寺の住職が浜で拾いお寺に安置した。」という言い伝えがあり、確認はできませんが須江の東の山には、神社の跡があると言われています。


その他、天保年間に編集された「紀伊続風土記」によると、鳴神神社があるあたりを「地下(じげ)」と言い、須江地区の浜のあたりも「地下(じげ)」と言います。

 熊野には古くから巨岩、巨石、巨木、滝など自然の造形物を神あるいは鎮守様として祀る習慣があり、「五十猛命」は一説では嵐の神様で、「自然神」と思われ、上陸してきたこの場合の「神」を「自然神」と考えるには無理があり、人と考える方が歴史的には普通だそうで、元々住んでいた先住者より力のある集団が渡ってきたと思われます。

 古代縄文時代の遺跡からも、須江地区の峰地丘陵地帯から浜にかけてと、樫野地区の鳴神の浜にかけて縄文人が生活していたことは間違いがなく、すぐ隣りどうしの須江、樫野の浜の住人は、互いに密接な関係にあったと思われ、先住者として住んでいた彼らの村に、先住者より力の強い一族が移ってきたのではと考えられます。

 後世になり、いろんな史実を祭事に結びつけることは珍しくなく、「一族の上陸」、「氏神である八幡神社」、「産土神である嵐の神、鳴神明神」そして「須江、樫野の深い結びつき」を関連づけたのが「昔は、雷公神社は須江にあり嵐で流失したが、翌日に樫野に漂着し・・・」と言う話で伝えられたような気がします。
 
 雷公神社の女人禁制は近年になって解かれ、女性もお参りすることができるようになりましたが、信仰心の強いところは昔と変わらず、氏子は神社にあがる際は神社下の美鈴川の水で手足口をゆすぎ、履き物をぬいで参ります。
  須江地区の獅子舞
 雷公神社の須江地区氏子による獅子舞で、現在は須江獅子保存会によって保存継承されています。

 獅子は「メン獅子」と言われ、髪の毛は和紙を短冊状に切り、ヒノキの板で一枚一枚しごき「カール」をつけます。

 記録では、約200年程前の江戸末期に獅子舞を奉納されていたとあり、同じ雷公神社の氏子である樫野地区でも同様の、その記録が残されています。

 また、ここの獅子舞も古座獅子であることは明白で、串本町の獅子舞の記録によると「安永八年(西暦1779年)串本の若い衆、升屋宇兵衛宅を宿に、古座から獅子舞の師匠を雇い稽古始める。」と言う書簡があり、多少の差はあれ関わりの深かった「古座」から習ったものと思われます。

 特徴として天狗が二人で舞うことで、どこの地区も天狗の選抜には大変苦労したようで、「うちの子を、うちの孫を天狗に..」と、男の子を持つ家では我が子が天狗を舞うことを楽しみにしていたようです。

 おそらくある時期、天狗の選抜に苦慮した担当者が「いっそのこと二人で舞わそう。」と言うことになり、以後この地区では「二人天狗」になったものでしょう。

 もう一つの特徴は、起きあがった獅子を天狗が、宙を舞い飛びながら獅子をいさめる様を表現した舞です。(写真左)

 肩車された天狗は「空中高く舞い上がり」獅子の頭を幣で叩きいさめます。しかし、獅子も簡単には従わず「天狗に飛びかかります。」

 「驚いた天狗は、もんどり打って後方へひっくり返る」と言う曲技的なところが見せ場で、観客からは拍手喝采が送られます。

 古座住吉神社の天狗も、肩車をし同じような動きの舞をします。これは、古座から伝えられた「天狗」が、長い年月の経過にも関わらず、奇跡的に継承されている証でしょう。
 また、この舞は伊勢大神楽の「魁曲」(らんきょく)が原型と推測されます。
 
■獅子舞の主な演目
◎「幣之舞」◎「神宮之舞」◎「神明賛」◎「花掛かり」◎「寝獅子」
◎天狗之舞◎「剣之舞」◎「玉獅子」◎「扇之手」
  「大舞い」と「小舞い」
 紀伊半島南部の数ある獅子舞の中で、特筆すべきがこの「大舞い」と「小舞い」の構成です。
「大舞い」は、他の地区の地下舞わしと同じで、「祝い事」や「新築」の家を廻ったり、「当屋」や「区長宅」などの家を廻り「屋台」と「獅子舞」「天狗」などで構成され「獅子舞の奉納」をします。
 「小舞い」は、その他の家々を一軒ずつ廻り「幣之舞」「剣之舞」を「締太鼓」「笛」「獅子舞」の構成で、短くした簡単な舞いを奉納します。現在は、省略して、各班の班長宅を廻り奉納するようです。
これは「伊勢大神楽」で言う「門付け」と呼ばれる構成に酷似し、伊勢大神楽の流れを色濃く残す、数少ないものと注目しています。
 現時点では、紀伊半島、他の地区でこの「小舞い」があると言う情報はありません。







 
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