水門祭り(みなとまつり)










 水門祭り神事
「水門祭りの由緒」
 応神天皇(誉田別命)が幼い頃、御母命「神皇皇后」が三韓に兵を送った帰路、身内である「かごかさのみこ」と「おしぐまのみこ」が謀反を起こし、難を逃れるため家臣とともに南海の地に船で逃れます。
 この時、着いたのが水門浦の苗我島とされています。一旦、沖の島に船を着けた一行は、傷つき倒れた三人の重臣を祀り、地元ではこの島を「通夜島」と呼ぶようになりました。

 幾日かして、近隣の住民の知るところとなり、まず、水門浦、続いて出雲浦、串本浦とそれぞれ出迎えの船を出しましたが、水門浦の船に乗られて大島に上陸されました。
 その後、西の方角の串本に御渡海されましたが、この模様を後の世に伝えようと御祭礼の式を行うようになりました。この上陸され、一時居られた地を「上屋敷」と言います。

 ■触れ太鼓 午前4時半
  当屋で触れ太鼓を叩いた後、区内を回ります。

 
 ■湯立て  午前4時半
  弓頭が早朝、海に飛び込み身を清めます。これを湯に案内する。

 
 ■鏡取付  午前5時半
  上屋敷に立てられた「山」に、鏡を取り付け、隠します。

 
 ■御前の儀 午前9時半
  当船は苗我島へ出発します。

 
 ■お的の儀 午前10時
  当日、祭祀が終わってから、神社内広場と午後に渡御した
  苗我島でも行われます。
  儀式は、地面にひかれたござの上で、二人の若者により古式豊に
  演じられます。二矢づつ三回、一人六矢、合わせて十二矢が的に
  放たれます。


 
 ■大座の儀 午前11時
  神前で氏子にお神酒を振る舞う儀式で、当番組の「亭主役」が
  これを務めます。


 
 ■獅子舞奉納 
  近郷の獅子舞と基本的には同じで、「古座獅子」と言われてい
  ます。


 
 ■神幸の儀 午前12時
  大座の儀が終わると神幸で、潮打ちの先導で、神官、祭主、
  氏子総代、当番役員、弓頭などが神社から降りてきます。
  その後を、氏子衆が獅子屋台を担ぎ、笛、太鼓も勇ましく
  練ります。


 
 ■渡御の儀 午後12時半
  海辺に着いた一行は、当船に乗り込み「千秋万歳」の歓呼の中、
  「五丁櫨(ごちょうろ)」の音も高く苗我島へと向かいます。
  当船の両脇を「鳳」「隼」の二隻の櫂伝馬が
  並んで漕ぎ、これを見送ります。

 
 ■櫂伝馬競争 午後1時半
  「鳳」「隼」と名付けられた同じ型の二隻の「櫂伝馬」が、
  大島〜串本の間、約1.8kmを競漕します。


 
 ■つるの儀 午後2時頃
  櫂伝馬の後、上屋敷に立てられた「山」の周りを、平安朝の
  衣装をまとった稚児行列が「役者衆」を従えて3回まわります。


 
 ■当船入港 午後2時半頃
  苗我島から帰ってきた「当船」が入港すると、祭りも終盤に
  なります。

 
 ■鏡とり  当船入港後
  当船が入港すると、「山」が倒されます。山が倒されると
  若者が殺到し、隠されている「鏡」を見つけ、奪い合います。
  鏡を取った漁方は、その年豊漁間違いなしと喜びます。

 
※鏡とりのあと、大島郵便局前で「屋台」が練られますが、この時「鎌倉節」が唄われます。
※時間等は変更される場合があります。

 大島地区の獅子舞
 昔から、大島の獅子舞は「オン獅子」だと言われていますが、その起源については、余り判っていません。

 ただ言えることは、近郷の獅子舞と同じ、古座獅子であることは明白で、串本町の獅子舞の記録によると「安永八年(西暦1779年)串本の若い衆、升屋宇兵衛宅を宿に、古座から獅子舞の師匠を雇い稽古始める。」と言う書簡があり、当時の大島浦の経済的な力から、あまり変わらない時期に始まっていることは間違いありません。

 屋台に付ける締太鼓や大太鼓の位置は、串本、潮岬、須江、樫野などと同じで、締太鼓を右に付けます。当然、屋台の置く位置は、獅子の左側です。

 天狗は面を被り、獅子舞の全体の物語は、他の地区とあまり変わりませんが、天狗と獅子の絡みで「ちゃりん」と呼ばれる、立ち回りをします。

 演目も、ほとんど同じですが、ササラの天狗を「うっかり」と言います。また、昔は、「継獅子」と言う、肩に獅子を載せ舞う高等な舞いもあったそうです。
 水門神社
  大正三年(西暦1914年)八幡神社、若宮神社とエビスの鼻に祀られていた恵比寿神社を合祀し、現在の「水門神社」が造園されたそうです。水門神社の「水門」は、大島浦の古い呼び名で、天治二年ころにでており「水門浦」または「水門村」と当時は呼ばれていたそうです。

 「八幡神社」は、寛文八年(西暦1668年)当時の大島浦庄屋「沖作左え門」が建立したと言われています。また、「若宮神社」は別の所に祀られていたものを、明応三年(西暦1494年)場所を移し再建されたそうです。神社として形作られたのは、それぞれ寛文八年、明応三年であったようですが、どちらの神社もかなり古くから、村の人々の尊崇を集めていたようです。祭神は「誉田別命(ほんたわけのみこと)」【応神天皇】


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