芦雪と無量寺の街並みを歩く














 芦雪と無量寺の街並みを歩く
 江戸時代、串本の袋にあった無量寺は、宝永4年(1707年)10月の津波のために流失。中興の祖と呼ばれる愚海和尚<ぐかいおしょう>により、天明6年(1786年)に現在の位置に本堂が再建されました。

その際、愚海和尚とかねてより親交の厚かった絵師・円山応挙<まるやまおうきょ>は、青年期に愚海和尚と約束した「一寺の主となったとき絵を描きに訪れましょう。」を果たそうとしましたが多忙のため応挙は弟子である長沢芦雪<ながさわろせつ>を使いにたて、これらの障壁画を無量寺までとどけました。

 古くから漁業で栄えた串本には、大きな網元の屋敷や、古い蔵、煉瓦造りの建物などが残されており、狭隘な道には大正、昭和の歴史を感じさせられる風情が漂っています。

 石積みの石垣や石塀などを見ながら無量寺を訪ね、江戸期の名画をご覧頂きたいと思います。
●板塀や石塀の家が続く裏道を…
JR串本駅を西へ延びる駅前通り商店街をすぐに山側へはいると黒塀や石積みの石塀が残る古い家並みが続きます。

駅前商店街は、その昔、現在の国道42号線ができるまで、国道として使われてきた道で、もっと古くは串本の海岸線の砂浜だったそうです。

商店街が海岸線だった頃、この裏道は串本のメインストリートだったのでしょう。
駅前から大正時代の中心であった本町へと繋がっています。
 
●白壁の土蔵や煉瓦造り
元造り酒屋の白壁の土蔵、醤油工場の煉瓦壁などを思わせる、昔の串本の面影残る街並みは、気ままにブラブラ、ルートのとらわれず歩くと街が見えてくるような…

串本小学校南側にある、無量寺は白い土塀に囲まれてあります。
●詳細地図

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 無量寺
禅寺である錦江山(きんこうざん)無量寺は串本の町の狭い通りの一角にあります。

境内にある「応挙芦雪館(おうきょろせつかん)」には円山応挙(まるやまおうきょ)、長沢芦雪(ながさわろせつ)の作品を中心に、室町、桃山、江戸時代の絵画96点を展示しています。収蔵庫に収められている襖絵は国の重要文化財に指定されていますので、お天気の悪い日は見ることができません。(2006.4.20)

 この無量寺は、元袋港に面して建てられていました。袋港は、その地形からたびたび津波の被害に見舞われてきました。

無量寺も宝永4年(1707年)の津波で建屋が流失し、天明4年(1786年)に現在の地に再建されました。(2008.10.15)
 
 串本応挙芦雪館
串本の町の狭い通りの一角にあるお寺、無量寺。その境内に併設されている小さな美術館が串本応挙芦雪館です。円山応挙、長沢芦雪の作品を中心に、室町、桃山、江戸時代の絵画96点を展示しています。ほかに串本の笠嶋遺跡からの出土品も展示しています。

禅寺である錦江山<きんこうざん>無量寺は、もともとは串本町の袋という地区にありましたが、宝永4年(1707年)10月の津波のために流失。中興の祖と呼ばれる愚海和尚<ぐかいおしょう>により、天明6年(1786年)に現在の位置に本堂が再建されました。

その際、愚海和尚とかねてより親交の厚かった絵師・円山応挙<まるやまおうきょ>は、青年期に愚海和尚と約束した「一寺の主となったとき絵を描きに訪れましょう。」を果たそうとしましたが多忙のため応挙は弟子である長沢芦雪<ながさわろせつ>を使いにたて、これらの障壁画を無量寺までとどけました。
また、やってきた芦雪は愚海和尚の薦めで串本に長く滞在し絵筆をふるい、多数のふすま絵を描きました。現在、これらの絵は境内にある串本応挙芦雪館内に展示されています。

円山応挙作品
紙本墨画波上群仙図 壁貼付2、襖貼付6
紙本墨画山水図 床(とこ)貼付4、違棚壁貼付4
紙本金地著色群鶴図 天袋貼付4
長沢芦雪作品
紙本著色薔薇図 襖貼付8(上二之間)
紙本墨画竜虎図 襖貼付12(室中及び仏間)
紙本墨画群鶴図 壁貼付1、襖貼付6(下一之間)
紙本墨画唐子琴棋書画図(遊図) 襖貼付8(下二之間)

所在地   串本町串本833
アクセス  JR紀勢本線串本駅より徒歩10分
駐車場   あり(無料 )10台
営業時間  9時30分〜16時30分(入館は16時まで)
休業日   12月30日〜1月3日
入場料   1,000円(小中学生500円)
電話番号  0735-62-6670
 
 円山応挙
円山 応挙(まるやま おうきょ、享保18年5月1日(1733年6月12日) - 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期の絵師。

近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。

享保18年(1733年)、丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現・京都府亀岡市)に農家の次男として生まれた。

穴太は、西国三十三ヵ所の札所寺院である穴太寺があることで知られる。

少年時代のことはあまり詳しくわかっていないが、遅くとも十代の後半には京へ出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っている。

応挙の画風上の特色として第一に挙げるべきことは近世の日本の画家のなかでも際立って「写生」を重視したことである。

前述の祐常著『萬誌』によれば、応挙は常に懐中に写生帖を忍ばせ、暇さえあればスケッチに余念がなかったようだ。

現存する『花鳥写生図巻』(個人蔵、重要文化財)や東京国立博物館蔵の《写生帖》などには動物、昆虫、植物などがさまざまな角度から客観的に描写されている。

著名な弟子には呉春や長沢蘆雪、森徹山、源gなどがいる。
 
 長沢芦雪
長沢芦雪(ながさわ ろせつ、宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日(1799年7月10日))は、江戸時代の絵師。円山応挙の高弟。

蘆雪とも。現在の京都市伏見区に生まれる。

その性格は奔放で、ある意味快活である一方、傲慢な面があったと伝えられる。

そのせいか、「後年応挙に破門された」というような悪評とも言うべき根拠不明な巷説や異常な行動を伝える逸話は多い。

1786年-87年(天明6-7年)、南紀に滞在した折に多くの障壁画を残している。現在、串本の無量寺、古座の成就寺、富田の草堂寺に計180面の障壁画が残る。無量寺境内には応挙芦雪館が開設されている。
 
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