トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難 |
明治22年オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン提督を特派使節として日本に派遣した。
巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて609名であった。
翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。
明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。
やがて、山のような怒濤に揉まれ揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。
この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、かかる絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。
地元住民の献身的な救助活動にも、オスマン提督以下540名が遭難、69名が救助された。
かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。
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日本人216名を救ったトルコ航空機 |
イラン・イラク戦争が続いていた、1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。
イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかったため空港にいた日本人はパニックに陥った。
そこに2機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、トルコ(アンカラ経由イスタンブール)に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
※この事は、あまり日本人に知られていません。
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■トルコ記念館 |
エルトゥールル号の遭難の悲劇を機に犠牲者の慰霊を通じて串本町とトルコ国との交流が始まり、昭和39年11月ヤカケント町と姉妹縁組みを結び、平成6年にはメルシン市との姉妹都市提携の正式調印を交わしました。
トルコ記念館は、トルコ国との友好の証として、今後一層、日ト親善の契りを深めると共に、国際的な友愛の精神を広く伝えることを目的として、建設されたものです。
館内には遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されており、遭難事故当時の様子を知ることができます。
所在地 串本町樫野1025-25
アクセス JR紀勢本線串本駅よりバス37分 終点「樫野灯台口」下車、タクシー20分
駐車場 あり(無料)84台
営業時間 午前9時〜午後5時
休業日 年中無休
入場料 500円(高校生以下 250円)
電話番号 0735-65-0628
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■トルコ軍艦遭難慰霊碑 |
エルトゥールル号が遭難した明治23年当時、地元樫野の島民は献身的な救助活動を繰り広げ、引き揚げられた遺体は、救出され一命を取り留めたハイダール士官立ち合いのもとに、遭難現場である船甲羅岩礁を真下に見下ろす樫野埼の丘に埋葬されたと伝えられています。
翌、明治24年3月、和歌山県知事はじめ、有志の義金により、墓碑と追悼碑が建立され、併せて追悼祭が行われました。
後に、昭和天皇の樫野埼行幸(昭和4年)を聞いたトルコ共和国初代大統領のケマル・アタチュルクが新しい慰霊碑を建立するこ事を決定し、和歌山県が委託を受け、現在のような立派な弔魂碑に改修されましたが、墳域設定に際して、大島村民は樫野埼灯台南東約300uのこの広場(面積746u)を提供いたしました。
そして、天皇行幸8周年記念日に当たる昭和12年6月3日、除幕の日を迎え、今日もなお熊野灘沖を行き交う船舶を見守るかのように、樫野の丘にそびえ立っているのです。
節目の年には、日本とトルコより、関係者多数が参列し、慰霊祭などが行われます。 |