日米修好記念館

日米修好記念館

上陸地点とされる雷公の浜

記念館内部

日米修好記念館
 1791年(寛政3年)、ペリーの黒船来航より62年も前のこと、レイディ・ワシントン号とグレイス号の2隻のアメリカ商船が大島に上陸しました。これが公文書に記録された初めての日米間の接触であるとされています。同館では、当時の様子を解説したジオラマや写真、船の模型などが展示されています。

所在地   串本町樫野1033
アクセス  JR紀勢本線串本駅よりバス35分 「樫野」下車、タクシー20分
駐車場   あり(無料 )40台
営業時間  9時~17時
休業日   年中無休
入場料   250円(小学生以下120円)
電話番号  0735-65-0099
 
  日米修好の地
■日本初の黒船来航は、浦賀ではなく樫野埼であった!
 米国のペリー提督が黒船で浦賀沖に来航した日をさかのぼること60年余り前、寛政3年3月24日(旧暦)夕方、突如現れた2隻の船に、樫野浦の住民は驚き、慌てふためいた。

 潮だまりに投錨した船からは、小型の船が降ろされ、磯周りを廻りながら、水を補給したり鉄砲で鳶を撃ち落とした。
 (日本側資料)中国にラッコなどの毛皮を交易しようと出かけたが不成立になり、帰還途中に立ち寄った日本であったが、毛皮の使用法を知らなかった住民とは、やはり交易が成立しなかった。

 この日、日本は、初めて星条旗を見ることとなり、米国人が初めて日本の地歩踏んだわけで、以来、日本と米国との関係が続くこととなります。

日米初の修交に関する文献(観光パンフレット及び串本町史より)
・米国文献

1791年、ボストン船籍の「レディ・ワシントン号」(ケンドリック船長)がニューヨーク船籍「グレイス号」(ダグラス船長)とともに中国からの帰路、ラッコの毛皮を交易しようと南日本の港に入港した。この時日本は初めて米国旗を見た。しかし住民は、毛皮の使用方法を知らなかったので商売にはならなかった。(マサチューセッツ海事史)


・日本側文献
寛政3年3月26日夕、南海道紀伊国大嶋浦へ蛮船2隻漂着、右大嶋浦は口熊野の内也、..中略..小舟をおろし魁主は赤将束緋羅紗の由十四五人端船にて磯部乗廻り、小鳥銃にて鳶鳥を十五六打申候..中略..この後大嶋の水有之所にて水を取申候、水源より木綿桶にて端船へ水を招きやり候由、漁船を招き一怪書を贈り申候、本船主紅毛有之候得共、紅毛とは不相見へ、ムスコヒヤヲロシヤの類と相見へ、横文字を有之候、去年本船はアメリカ記し置書面と一様不相見へ候..

(国立公文書館「外国通覧」)

・和歌山藩砲術師の記録
「大島の沖へ、13段に帆をかけた、異国船が来て、和歌山藩砲術師の李俊が住んでいる高芝村からも、見えたから、どこの港へ船を入れるのだろうと
、見ていると、大島の沖へ暫く船を留めて、銅で造った伝馬船へ、23人乗り、大島の内海へ、重りをつけた縄で深さをはかり、やがて大島の、内海
へ船を入れかかったから、村人達が驚いて、文字を知った者がないので、急に李俊を船で迎えに来た。
急なことで、李俊も筆紙を持って船に乗り、5里ばかりあるこの処へ来て見ると、先ず船の造りが珍しい。船は2艘だが、1艘のみよしには、背丈1
丈ほどの男が甲胄をつけ、長剣を横たえ、其の剣を半分抜きかけた形の造り物で、金銀朱の色が日に映えてさも勇壮な形である。他の1艘には、長さ
8尺ばかりの美婦人で頭に朱翠をかざり、辨髪を長くたれて、汐に届くばかりに綾羅(あやうすもの)をひいて、釣竿を持って、一心に魚を釣るとこ
ろの造りものである。
船中の人は、6尺余りで、鼻の先が炎って高く、眼中が赤く、手足も長い様に思われる。村人は漁船で、見物に行った者を船の中へ招き入れて酒をの
ませ、ごちそうを食わせ紙を与えなどして、にぎわって居る所へ、李俊も船を近づけ、異国船へ乗移ろうとしたら、船から李俊を見て3人舷に出て巾
の如き物を振って「上がって来るな」というらしいから、控えていたら、小船に乗っていた、村人1人が船から下げた梯の中段まで上がって、船の中
の様子を伺っていたら、猛犬が走って来て右の物の右袖を喰切った。その勢に怖れて村人は早々に梯を下りたのです。
李俊が筆談を贈ったら「本船はアメリカ船也、入港して東風を待つだけ」と返事が来た、その他の事を書て贈っても、受け取らず、それで1町ばかり
退いて、見物していると、鳶が多く飛んでいるのを、船中の人が舷に並べた鳥銃を1挺片手で振廻し、ねらいもせず火縄もつけず「ドン」と発したら
3度に2度は、鳥が飛んでいるのにあたって、空から海に落ちる、すると猛犬が海に飛びこんで鳥を喰わえ帰って船頭に餞る。その有様は何と、不思
議な事と李俊が感じた」
と和歌山藩砲術師の李俊は書き残しています。

寄港地は、現在の雷公の浜(ナルカミ)とされています。「水有之所にて..」とあるのは、雷公神社脇を流れる小川と思われます。この付近は、紀伊風土記などによると、古くから集落があったようで、当然の事ながら、当時も集落があり、この人々が最初の交流の当事者になります。

この時、漢文の書簡の他にオランダ語の書簡も手渡したようで、後の報告書に「蛮船二隻は亜蘭蛇、..(外国船はオランダ船)」と誤解してしまい、近年米国の資料が見つかるまで、ペリーの浦賀来航が日本で最初と言われることとなります。
 
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